日々の考察

「良くなる」ということについて

このホームページを開いて見てみた人が、何かひとつでも、これは役に立ったということを提供して行きたいと思っている。

今回は「良くなる」ということについて書いてみたいと思う。

親のことを勝手に心配して「公認会計士」にでもなれば、親がだまされないで、しかも、世の中の役に立ち、生活もちゃんと出来るのではないかと思った時代、経済学を勉強しているうちに「俺は人間のことをわかっちゃいなくて、人間モデルの上で考察を経済学はすすめているのだから、先ず、人間のことを勉強したい」と、自分が6歳の時に一つ年下の弟が急死したことで、お寺に通って佛教を学び出した父の影響もあって、佛教を学びはじめ、そうしているうちに、身体で東洋を知りたくて、様々なことを学んでいるうちに、焦国瑞先生に出会い、同じ佛教学の先生に学んでいた俊才の学生が「この人は人物じゃないか」と、その写眞を観て言った、その先生の姿に魅かれ、中国まで学びに行き、先生の主著であった「氣功養生学概要」を訳させていただいたりもした。そうして、臨床免許を取っておこうと鍼灸学校に入り、免許を取得したのであるが、当たり前のことかもしれないが、国瑞先生以上の東洋医療の先達に出会うはずもなく、鍼灸学校で学んだことだけでは、自分が考えているような「良くなる」ことは、かなうはずもない。野球で言えば、ボールが来たら、「パーン」と打つのだということは、その打つ時の身体が出来ていなければ、絵空事になってしまうというのと似ている。

広史鍼灸院は、基本的には、鍼も灸も使わない鍼灸院である。手技での厳密さで、感じ取っての施術でないと、思った結果が出ないからだ。そのことが、可能となるための「稽古」を先生から受けて、日々、自身を進化させて行こうと努力は続けて来ている。「稽古」を受けての、生きていることの「正しく動くこと」の「基準」とでも言うべきものが施術の土台だ。

その「基準」を「基準」としての施術で、人は「普通さ」と「自然さ」、その「流れ」を取り戻すと「良くなる」。それが末期癌であれ、統合失調症であろうと、それが実現されれば「良くなる」ことは体験して来ている。

もちろん、この薬を飲めば良くなります、といったものではないが、それが実現されるようにと、本業に励んでいる日々である。