身体のための日常の動き

「普通さ」と「自然さ」を取り戻す ~理論編~

普通であること、自然であることが“神髄”である

「普通である」こと、「自然である」ことが大切です。一見、当たり前のように思えるこの二つの言葉ですが、実は現代医学や神経科学から考えても、とても本質的な意味を持っています。

人の身体には、外界が変化しても、身体の内部を一定の範囲に保とうとする働きがあります。これを「ホメオスタシス」と呼びます。体温、血圧、血糖、pHなどを適正な範囲に保ち、生命を維持するための基本的な仕組みです。

しかし、人はただ「一定」であればよいわけではありません。運動すれば心拍数が上がり、暑ければ汗をかき、危険が迫れば身体を緊張させる。状況に応じて身体を変化させながら、全体として安定を保っています。このように、変化しながら安定をつくり出す仕組みを「アロスタシス」といいます。つまり「自然である」とは、何も変わらないことではありません。変化に応じて、無理なく調整できること。それが、生きている身体の「自然」なのです。

脳の働きに目を向けても、同じことが言えます。私たちは、外の世界をそのまま受け取っているわけではありません。脳は、これまでの経験をもとに「こうなるだろう」と予測し、実際に入ってきた感覚との「ズレ」を絶えず調整しながら、世界を認識し、行動しています。こうした脳の働きを説明する考え方の一つが「予測符号化理論」です。予測と現実との「ズレ」を適切に調整できれば、私たちは環境の変化に柔軟に対応できます。

身体の「動き」から見ても同じです。首、胸、腰、そして足。それぞれがばらばらに働くのではなく、身体全体が連動して動く。筋肉や筋膜、血管、神経といった身体のネットワークがつながり、それぞれが無理なく働いているとき、私たちは必要以上に力まず、バランスよく身体を動かすことができます。反対に、どこかが過剰に緊張し、「詰まり」が生じると、その影響をほかの部位が補わなければなりません。身体の一部の問題が、やがて全体の力みや痛み、疲労につながり、身体から脳へ入る感覚情報にも影響していきます。

だから、身体は「部分」だけではなく、「つながり」と「流れ」として見ることが大切なのです。このように考えると、「普通」であることとは、過剰でも不足でもない「最適な状態」。そして、「自然」であることとは、固定された状態ではなく、変化に応じて調整できる「つながっていて流れのある状態」と言えるのではないでしょうか。医学的に表現すれば、身体が必要以上のエネルギーを使わず、環境の変化に柔軟に適応しながら働けている状態です。

人の身体には、本来、この状態へ戻ろうとする力があります。しかし現代社会では、ストレス、運動不足、生活習慣、長時間の同じ姿勢などによって、その「普通」や「自然」が失われ、「ズレ」が生じやすくなっています。だからこそ大切なのは、特別な能力を新しく身につけることだけではありません。「ズレ」を修正して、本来持っている力を取り戻すこと。身体の詰まりをほどき、もう一度「つながり」と「流れ」を取り戻すことです。

「普通であること」。「自然であること」。それは、ただ元の状態へ戻るということではありません。本来の自分に戻りながら、さらに成長していくこと。それこそが、人が持っている「普通」と「自然」の“神髄”なのだと私は考えています。

ここからは、直立二足歩行を始めた人間が本来持っていた「普通」と「自然」を取り戻すために、身体の「動き」から考えていきましょう。

普通で自然な、本来の身体のあり方

「最適な状態(普通)」であり、「つながっていて、流れのある状態(自然)」とは、具体的にどのようなことなのでしょうか。

最適な状態とは、筋肉や筋膜のネットワークが「緊張しすぎない」、神経のネットワークが「焦らない」、血管のネットワークが「詰まらない」状態です。そして、そこには「身体を十全に使って生きている」という感覚があります。身体が「つながっている」とは、すべてが一つに固まって動くことではありません。つながっていても、癒着してはいない。それぞれが自由でありながら、全体として調和し、「流れている」ことが大切なのです。

脳と身体と環境は、互いに影響を与え合っています。私たちは地球という環境の中で、上下・左右・前後の三次元空間に生きています。その中で、特に大きな非対称性があるのが「上下」です。なぜなら、重力が常に働いているからです。重力に抗するだけではなく、重力を活かす。そのために重要なのが、「上下の動き」です。直立二足歩行では、位置エネルギーと運動エネルギーを効率よく変換しながら、身体を前へと運んでいます。立っているとき、地面に接しているのは足裏だけです。その足が滞りなく「流れ」、その上で骨盤が安定する。そして、腰の上に上半身がスッと置かれ、身体の上に頭がフッと置かれている。どこにも余計な力みがなく、必要な力で身体を支え、全体が自然につながっている状態です。しかも、足も、腰も、上半身も、頭も、固く結びついているわけではありません。互いの動きを妨げず、必要なときに必要なだけ動き、また自然に元の位置へ戻る。それぞれが自在で、自由でありながら、全体として一つにつながっているのです。

これは、身体だけの話ではありません。人と人との関係も同じです。つながりが強すぎれば束縛となり、離れすぎれば孤立してしまいます。互いを尊重し、それぞれが自由でありながら、必要なときには自然に支え合える。そこには、ほどよい「間(ま)」があります。

「普通」であるとは、余計な力みがなく、それぞれが本来の働きを発揮し、その働きが普(あまね)く通じていること。「自然」であるとは、つながりながらも癒着せず、自在に変化し、流れていけること。身体にも、人との関係にも、この「間」があるからこそ、無理なく動き、状況に応じて調整できるのです。つながっていても、癒着していない。自在で、自由である。

それが、私の考える「普通」で「自然」な、本来の身体のあり方なのです。