九月二十五日(金)
小田原の《氷花餃子》にて昼食。
「中華だなぁ」と、妻とほほ笑みながら楽しく食べた。
電車とバスで大室高原の家へ。バスは、観光客で満杯。
外国からの人が半数。
先生が撮った奈良の大佛のことを考えた。
先生は、大佛に向かって左から撮られた。
大佛の右の掌が鮮明に撮られている。その掌は、我々に「大丈夫ですよ」と語りかけている様に感じられる。ところが別の人が撮ったものでは、同じ掌が「あっちへ行け!」と言っているように感じられるのである。
東大寺の大佛は、毘盧舎那佛で、右手で「施無畏印」を結び、左手で「与願印」を結んでいる。
東大寺のホームページを見てみると
『大仏さまは、正しくは盧舎那(るしゃな)仏、もしくは毘盧舎那(びるしゃな/ヴァイローチャナ)仏と言い、その意味は、智慧と慈悲の光明を遍く照らし出されているほとけ、ということである。』
〝佛教は、インド伝来のもの。大佛殿へと向かう道の眞ん中に敷かれている石はインドの石で、その石の感触が一番柔らかい。その眞ん中の道を通って、大佛にまみえると伝わって来るものが有る。“ とは先生。それは、「全てを受けとめる」という感じなのだろうと思った。
全てを受けとめての「悟り」で、その上での「施無畏印」であり「与願印」であろうから。
先生が撮られると「施無畏印」がまさに「大丈夫ですよ」に感じられ、撮る人によっては「あっちへ行け!」と感じられることは面白い。
先生が言われるように、先ず、覚者(ブッダ)とは、どういう存在なのかを感じ取り、この日本という土地の要求で各自が背負うべきものを背負う覺悟で臨めば「あっちへ行け!」には、きっとならないのだ。
そして、その上での「大丈夫ですよ」の上で、各自が背負うべきを背負って、その努力の上での本当の楽しさを味わえるためには、この日本の土地にふさわしく足が流れていなければならないということなのだろう。

